普通に話すことを求めて

私は18歳まで、統合失調症の母と暮らしていました。家庭は会話ができず、声を出して一言でも話すだけで精一杯。そんな環境で育ったため、人と話すこと自体が大きな壁でした。

大学進学を機に母のもとを離れ、自分の幸せを優先して家を出ました。大学生活は「リハビリの4年間」と位置づけ、あえて接客業のアルバイトに挑戦しました。幸い接客業にはマニュアルがあり、その通りに声を出せばなんとかなる。私はマニュアルを丸暗記し、まずは声を出す練習から始めました。

アルバイトに行く前には毎回吐き、血便が出るほどのストレスを抱えていました。それでも続けるうちに症状は徐々に落ち着き、やがて人と雑談できるほどに回復しました。

血便という体のSOSは、私に思考を変えるきっかけを与えました。本来なら病院と薬に頼るべきなのですが、薬を飲むと怠さが強く、自分の判断でやめてしまいました。その代わりに、「最悪」を考える癖をやめ、意識的にポジティブな捉え方をするようにしました。不思議なことに、思考を切り替えると体調も改善していったのです。今では「何とかなるさ」と思えるようになりました。あくまで私の場合は運が良かっただけで、医学的に正しい方法ではありません。決しておすすめはできません。

ただ、18年間の言語的なハンデは消えず、当時、人との関わりを避け、あえて「喋らなくてもいい技術者」を目指していました。(現在では、技術者のほうが説明能力が必要と思っています。)まさかその後、自分が営業職をせざるを得なくなるとは思ってもいませんでした。断ることすらできないコミュニケーション能力を恨みもしましたが、今では「話すことは人生の課題」だと受け止めています。

私はまだ「普通に話せる」という“普通”を獲得したわけではありません。それでも、一生をかけて緩やかに改善し、少しでも近づいていこうと思っています。

断れることは人生をコントロールすること?

前職では技術者志望で入社しましたが、実際には営業職に配属されました。自分でも明らかに苦手分野だと思っていましたが、「やってみないことにはできるかどうかも分からない」と考え、とりあえず断らずに営業を始めました。そして気づけば、今もずるずると営業を続けています。

というより、技術力がないため営業しかできない、というのが正直なところです。とはいえ、私の場合は営業と呼ぶほどのものではなく、ただの御用聞きに過ぎません。

いまだにプレゼンや商品説明を理路整然と話すことができません。質疑応答もうまく対応できず、気づけば循環論法のような話し方になり、中身のない説明になってしまいます。さらに滑舌も悪く、声も裏返ることが多いため、筆舌に尽くしがたい聞きづらい話し方をしてしまいます。

前職で毎年新入社員を見てきましたが、「営業はやりたくない」と断われる人が何人もいました。そういう姿を見て、「自分の意思を持って断れるのは羨ましい」と感じたものです。しっかりコミュニケーションを取り、自分の人生をコントロールできるからこそ断れるのだと思います。そして、相手もすぐに判断でき、次の行動に移せるので、断ること自体がむしろ親切なのかもしれないとさえ思いました。

一方で私は気が弱く、断れない性格です。できなくてもとりあえず挑戦し、最終的な判断を相手に委ねてしまう。その結果、人に言われるままに動き、広く浅く経験はしてきましたが、専門性と呼べるものは何ひとつ身についていません。

本来であれば、生産手段となる専門性を身につけ、最悪は独立できるように備えることが理想です。しかし、正直に言えば私は仕事が苦手であり、サラリーマンという立場が一番守られていて楽だと感じています。だからこそ、これからもサラリーマンとして何とかしがみついていこうと思っています。

若さという資産は、今もこうしている間にも少しずつ目減りしていきます。だからこそ、サラリーマンとしてしがみつけるだけの強みを何とか身につけたいものです。